7/02/2011

邦訳と口調と印象

興味深い新聞記事がありました。
内容についてというより、方法的な部分においてです。

朝日新聞の6月28日朝刊(7面)「アノニマス「誰でも参加OK・チャットで総意決定」」では、「中井大介」さんによるスカイプを通じたアノニマスの関連サイトを管理する男性へのインタビューが載っています。
以下に一部を引用すると、

――アノニマスはどういう組織なのか。
 「誰でも参加できるし、誰しもがメンバーになれる。特にリーダーがいるわけでもない」
――総意はどうやって決まるのか。
 「ネット上のチャットが主な手段だ。一定の合意が得られれば、実行される」


とあります。
インタビュー原文が掲載されていないため細かい表現については言及できないのですが、
例えば、
「誰でも参加できるし、誰しもがメンバーになれる。特にリーダーがいるわけでもない」
という部分、推測される原文からは
「誰でも参加できますし、誰でもメンバーになることができます。特にリーダーがいるわけではありません。」(丁寧な応対風)
「誰でも参加できるし、誰でもメンバーになれるよ。特にリーダーがいるわけじゃないし。」(ライトな口調)
という口調で訳すこともできます。
続く「ネット上のチャットが主な手段だ。一定の合意が得られれば、実行される」という部分も、
「ネット上におけるチャットが主な手段になっています。一定の合意が得られれば、実行されます。」(丁寧な応対風)
「ネット上のチャットが中心になってる。ある程度の合意が得られると、実行されるね。」(ライトな口調)
として訳すこともできると推測できます。

外国語から日本語に訳す際の口調は、訳者や掲載されるメディアに依存する部分が大きいです。どれが正解・不正解というわけではありません(というよりむしろ、そうしようとすること自体が不毛な行為だと思います)が、当初の堅い口調では明らかに犯行声明っぽさが強く、また「排他的で高圧的な人だなー」と感じてしまいました。本当のところその人がどんな人物かはわからないのに、なんとなくネガティブな印象を受けてしまう、それに邦訳が強く係わっている、ということです。

この記事を読んで、内容とは別に、ほんの少しの口調の違いで受ける印象はかなり違ってくる、ということを改めて感じました。
なかなか難しいですが、気をつけていこうと思います。


追伸
ちなみにここのNOFX翻訳では、マッチョな思想の人々をNOFXは一貫して批判し続けている、という姿勢に鑑みて、マッチョ的な一人称へのアンチテーゼとして歌詞内の一人称をあえて「僕」にしていることが多くあります。「パンクなのに「僕」かよ「ボクチャン」www」って言われると元も子もないのですが、一応そういうつもりで使っています。よろしくです。